芥川龍之介・作品集

芥川龍之介・作品集のコーナーです。

歴史小説・恋愛小説・推理小説・ミステリー小説・現代小説・純文学など、読書好きで小説ファンのわたしが、最近話題の本やこれまでに読んだ本のあらすじや感想、書評、そして、面白いおすすめ小説を紹介しています。

ここに 『 日本文学の名作集 』 として紹介した作品は、どなたも一度は読んだことがある作品だと思います。そんな名作の中から特に、『 感動した小説 』 や『 生きるヒントが詰まった小説 』などを管理人の独断と偏見で選び、各々にあらすじや感想、書評を記載して一覧にしたもので、これからも随時更新していく予定です。


芥川龍之介のプロフィール

芥川龍之介は、1892年、東京都中央区で牛乳の製造販売業を営む家に長男として生まれる。
生後、母親の病気を理由に母方の芥川家に引き取られ、後に現・東京大学英文科に入学する。
その在学中に発表した『羅生門』や『鼻』が夏目漱石などから高い評価を受けることとなり、一躍注目されるようになった。
芥川龍之介のその他の主要な作品には、『芋粥』、『蜘蛛の糸』、『杜子春』、『藪の中』など多数の名作を残している。
1927年、35歳で服毒自殺。現・東京都立両国高校に彼の碑が立っている。

芥川龍之介、1892年生まれ、東京都中央区出身。享年35。



★ 羅生門

羅生門

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【あらすじ】
平安朝末期のある日の夕暮れ、一人の下人が羅生門の下で雨宿りをしていた。
雇い主から暇をもらった下人は、何すべくもなく荒れ果てた京の状況の中で、明日の暮らしのことをぼんやりと考えていた。
仕方なく、その日の寝場所を確保するため羅生門の二階に上がった下人は、一人の老婆と出会う。
松の木片の火で死体を覗き込んでいる老婆を見て、最初は下人も恐怖心が六分、興味心が四分の気持ちで見つめていると、なんと老婆は、その死体から髪の毛を一本一本抜いているのだった。
その光景を見て下人は、激しい憎悪と反感を覚えるとともに、老婆がなぜ死体の髪を抜いているのかが理解できなかった。
大股で老婆の前に歩み寄った下人は、老婆の腕をつかんで無理やりねじ伏せ、太刀をかまえた。
両手を震わせながらも黙ったまま、眼球が瞼の外に飛び出るぐらいに目を見開いて下人を見つめている老婆。
それを見た瞬間、下人はそれまで燃えたぎっていた憎悪が消え去り、まるで仕事を達成したあとのような満足感と安堵感が生じ、死体から髪の毛を抜いていた理由を老婆に尋ねた。
すると老婆は、あえぎながらも、「この髪を抜いて、かつらにしようと思った」と答える。
意外にも平凡な答えに下人が驚いていると、老婆がさらに言う。
「死人の髪の毛を抜くことは悪いことかもしれないが、ここにいる死人は、みんな生前にこの程度の悪事を働いてきた。それをしなければ自分が餓死するからだ。そんなことはみんな承知しているから、この死人とて許してくれるはずだ。しなきゃこっちが飢え死にするから、仕方なくすることじゃ」と、
それを聞いた下人は、先程とは別の感情が芽生え、すばやく老婆の着物を剥ぎ取ると、足にしがみつく老婆を手荒く死体の上に蹴落とし、急なはしごを駆け下りていった。
呆然とする老婆が、門の下を覗いてみたが、そこには底知れない洞窟のような暗い夜があるばかりだった。

【感想・書評】
この作品は、洛中のさびれた京の都において、庶民の生活の厳しさの中で、生きることに追い詰められた人間のエゴイズムと悪事を働く人の心の揺れ動きを描いています。
人間と言うものは弱いもので、たとえ自分の行動が間違っていたとしても、それを正当化しようとするのです。
たとえ生きるためだとしても、それは人として人間として許されるものなのか、みなさんはどう思われますか。

★ 蜘蛛の糸

蜘蛛の糸

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【あらすじ】
ある日のこと、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを一人で歩いていました。
蓮池の下は地獄で、そこから中の様子が見えるのです。
地獄では、さまざまな悪事を働いた大泥棒のカンダタという男が、他の悪人とともにうごめいていました。
お釈迦様は、ふと、その男がかって一度だけ、一匹の小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたときに、「小さいながらも命あるものに違いない。その命を無闇に取るということは可哀想だ」と思い返し、助けてやったことを思い出しました。
お釈迦様は、その男がたった一つ良いことをした報いに、地獄から救い出してやろうと考え、銀色に光る蜘蛛の糸をそっと地獄の底へ下ろしました。
地獄では、針の山の周りの血の池で、他の悪人とともにカンダタも浮いたり沈んだりして、まるでしにかかった蛙のようにもがいていました。
そんなある日、するすると一筋に光る蜘蛛の糸がその男の頭上へ降りてきたではありませんか。
男は手を打って喜び、その蜘蛛の糸をしっかりと両手でつかんで、一生懸命に上へ上へと登っていきました。
もと大泥棒と言えども、さすがに途中疲れて糸にぶら下がりながら、登ってきたはるか下を眺めてみると、もう血の池や針の山も見えなくなっていました。
この調子で登っていけば、地獄から抜け出すのも案外簡単かもしれないと思うと、「しめた、しめた」と笑うのでした。
しかし、ふと気が付くと、自分が登ってきた蜘蛛の糸を、たくさんの悪人たちが、まるで蟻の行列のように登ってきているではありませんか。
カンダタは、驚きと恐怖でしばらく大きな口を開けてポカンとしたままでした。
そうこうしている内にも、何百何千人と言う悪人たちが次々に登ってくる様を見て、この細い糸が今にも切れてしまうと思った男は、下へ向かって叫びました。
「こら悪人ども、この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちはだれに許されて登ってきたのだ。下りろ、下りろ」と。
そう叫んだ途端、蜘蛛の糸は急にカンダタのぶら下がっているところからプツリと音をたてて切れてしまいました。
登っていたカンダタや他の悪人たちは、あっという間に地獄の闇の中へ落ちていってしまいました。
あとにはただ、キラリと光る蜘蛛の糸だけが、月も星もない闇の中にぶら下がっているだけでした・・・

【感想・書評】
この作品を読んで、お釈迦様が、たとえ極悪人であっても、一度でも良いことをしたのであれば、慈悲をかけて地獄から救い出してやろうとする気持ちに対し、人間の持つ利己主義という浅ましさのために折角のチャンスを逃す羽目になってしまった男の愚かさを寂しく感じました。
小さな命を助ける気持ちはだれにもあるはずですが、それが利己主義や自己中心主義によって間違った行動をしていまうという人間の浅ましさを戒めているのかもしれません。

★ 杜子春

杜子春

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【あらすじ】
唐の都である洛陽、その西の門の下で、杜子春という男がぼんやりと空を見つめていた。
彼はその昔、大金持ちの息子であったが、今では財産を使い果たし、その日の暮らしにも困るほど落ちぶれていた。
そこへ、目つきの鋭い片目の老人が現われ、杜子春にこう言った。
「夕日に照らされたお前の影の頭に当たるところを夜中に掘ってみよ、そうすれば黄金の山が埋まっているはずだ」と、
老人はそう言い残すと、いつの間にかその場所から居なくなってしまった。
杜子春は不思議な気がしたが、言われたとおりにその場所を掘ってみた。
すると、そこには黄金の山が埋まっており、一躍大金持ちになった。
大金持ちになった杜子春の家には、都の才人や佳人たちが連日訪れ、飲めや歌えの大騒ぎを繰り返した。
しかし、贅沢の限りを尽くした宴も、次第に金が底を突いてしまうと、また貧乏な生活に逆戻りしてしまった。
するとどうであろう、杜子春のことを誰も相手する者がいなくなってしまった。
元の貧乏人に戻った杜子春は、再び西の門の下で佇んでいると、先日の老人が再び現われ、「今度はお前の影の胸にあたるところを掘ってみよ」と告げて立ち去った。
言われたとおりその場所を掘って、再び黄金の山を得た杜子春であったが、贅沢三昧の以前と同じことを繰り返したため、また金がそこを突き、貧乏人に逆戻りしてしまった。
西の門の下で三度目に老人に会った杜子春はこう言った。
「お金持ちになれば人はちやほやしてくれるけど、貧乏になった途端に知らん顔でつくづく嫌になりました。お金はもういりませんから、弟子にしてください」と、
峨眉山(がびさん)に住む仙人で鉄冠子(てつかんし)というこの老人は、杜子春を峨眉山に連れて行った。
そして仙人は、「ここでは魔性がお前をたぶらかしに来るだろう、しかし、決して口をきいてはならぬ。もし一言でも口をきいたら仙人にはなれぬぞ」と言って立ち去った。
その言葉を守った杜子春は、滝のような豪雨とともに耳をつん裂くような雷鳴が鳴り響く中、襲いかかる蛇や虎にじっと我慢して口をきくことはなかった。
だが、恐ろしい姿の神将が現われ、散々に責められた挙句、杜子春は刺し殺されてしまった。
肉体を離れた杜子春の魂は、地獄へと堕ち、閻魔大王の前に引き出された。
そして、「なぜ峨眉山に着たのか」と問われても、剣の山や血の池地獄、灼熱地獄で責められても、仙人の言いつけを守った。
頑として口をきかない杜子春に、閻魔大王は鬼に命じて二頭の馬を引き立ててきた。
それはなんと、馬の姿に変えられた、亡くなった両親だったのだ。
鬼たちは鉄の鞭で馬を打ちのめし、肉は裂け、骨は砕けて、目には血の涙を浮かべた馬は苦しそうにいなないていた。
それでも杜子春は、仙人の言い付けを守り、固く目をつぶって耐えていた。
そんな杜子春の耳にかすかな声が伝わってきた。
「お前さえ幸せになれるのなら、私たちはどうなってもいいんだよ。言いたくないことは黙っておいで」と。
それは懐かしい母の声だった。
ハッとして目を開くと、そこには息も絶え絶えの苦しそうな馬が、杜子春とことを哀しそうに見つめているのだった。
その姿を見た杜子春は、思わず仙人の言い付けを忘れ駆け寄ると、「お母さん」と叫んで馬の首を抱きしめた。
その声で我に返った杜子春は、いつの間にかまた洛陽の西の門の前に立っていた。
「どうだ、とても仙人にはなれまい」と老人に言われた杜子春は、正直にこう言った。
「はい、いくら仙人になれるとしても、両親が苦しめられている様子を見ると、とても黙っているわけにはいきませんでした。もう、仙人になれなくてもいいと思っています」
仙人は言う、「もしお前があのまま黙っていたら、わしは即座にお前の命を絶ってしまおうとおもっていた」
そして、「仙人にもなれない、大金持ちにもなりたくないというお前は、これからいったい何になりたいのだ」と問うた。
杜子春はこう答えた。
「何になっても、人間らしい正直な暮らしをするつもりです」
杜子春を見つめて老人は言う。
「では、泰山の南のふもとにあるわしの家の畑をお前にやろう。今頃は家の周りに桃の花が一面に咲いているだろう」
そう言い残すと、老人はいずこともなく立ち去っていった・・・

【感想・書評】
老人は杜子春に、仙人になるための修行だと言って、どんな責め苦にあっても、誰とも口をきかないという言い付けをしたが、その実は、杜子春が持つ人間性を試すものだった。
約束を破った杜子春に対し、やっと人間らしい心が芽生えたと感じた仙人は、そこで初めて弟子にしようと思ったに違いないと思います。
しかし、仙人になることをあきらめた杜子春に、生涯困らない安らかな生活を与えたというところに、自由な人間性を尊重したいとするこの作品の意図があるのでしょう。
いずれにしても、人間性のない仙人などなんの値打ちもなく、虚しいだけではないでしょうか。






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